今年中は生きる目途が付いてしまった

生きてます。

完全無職のままだと来年は厳しいので、死なない場合日雇い等で食いつなぐのでしょう。

 

本来なら去年のうちに貯金が尽きる予定だったのですが、

家族の資金注入のおかげで事なきを得ています。

まあ支出の8割が固定回線とスマホの料金なので余裕です。

スマホと眼鏡が壊れたらちょっとやばいです。

自転車は壊れてます。

継続的な就労の意思ですか……そこに無ければ無いですね。

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人生が重かったから、キャッシュとかクッキー全部消したんだよね。そしたら、色々ログインし直さないといけなくて。

過去の記憶、思考をなぞっていく日々が続いている。

幼少期の出来事の再解釈と意味づけから始まり、

あの頃の私が何を思って、何を感じていたのか。

当時疑問もなく受け入れていた、未分類の感情が何だったのかを、

改めて思案し、ひとつひとつラベリングする作業をしていた。

 

存外に発見の多い仕事だった。

子供の頃は特に、自分の考えに言語が伴わず、しばしば生理的な現象として発露され、

大人に訳を訊かれても説明できない。説明できないことに対してまた怒られる。

そんな未成熟ゆえの、それゆえに一過性として片づけられる奇行の数々に、

新たな視点があることに気付かされたのだ。

 

少年期の私がついに解明できずに手放した、様々な思いを掘り起こしては、

一つ一つ、名前を付けてやることにした。

 

不仲な親族関係への憂いであったり、

窮屈な部屋で家族の機嫌を損ねないよう振舞うことへの疲れだったり、

まあほぼ家庭の悩みだった。

母親の彼氏との微妙な関係性と、そのせいで祖母とギクシャクした件も含まれるかな。

私はできれば、家族みんなを愛したかったんだ。

例え建前だったとしても、腹の底ではお互い憎んでいたとしても、

酒の席になるとみんな幸せそうに笑っていて、私はそれがよかった。

 

親族の不仲については、自分が無意識化で悩んでいると微塵も思わなかった。

当時は本当にそんなこと思った事がなくて、

でもあの時確かにあったモヤモヤはそれだとしか思えない。

もしくは今こうして過去を振り返ったことで生まれた、

完全に新規の感情であるのかもしれない。

だが、私が当時生活に支障を来した不調の、原因の根本まで分解していくと、

ここに突き当たることも確かだった。

 

顧問の指導に耐えられず部活にいかなくなり、

抑うつ状態になって遅刻や欠席が増えたのに、

登校するとケロっとしていたのは、

学校と家庭の両方で、耐えられるけど煩わしいくらいのストレスが発生して

板挟みになったんじゃないかと思う。

もし学校に友達がいなければ不登校になっていただろうし、

家の居心地が本当に悪いなら無理して登校していた。

つまり、私の悩みや苦しみというのは、

細分化していくと一つ一つは非常に軽微なものに過ぎなかったということでもある。

それでも嫌なものは嫌だったけどね。

 

こんな風に、昔のことを思い出しては、私の主観に隠された、

深層の意識について考えている。

実際は当時の考えとまるで違う考えをかもしれないが。

でも、考えることに意味があるんじゃないかと、月並みなことを言ってみる。

 

多分、うつ病になった時点で、私は生まれ変わって人生をもう一度やり直すことになったのだろう。

それは意識上のみの変化で人格と記憶は引き継いでいるから、

こうして実質的には他人事である私の過去を覗いて、あれこれ意見を言っている。

 

 

 

こんな戯言を言いたくなるくらい、最近の人生、つまらん。

どうせなら何もかも別人になりたかった。

でも、今も昔も、

私はそうやって自分を殺す選択肢から逃げ続けたんだ。

 

死にたくないなあ。

何もしたくないなあ。

 

また、板挟み。

最悪の形で現れる自己保存の欲求

下書きを眺めていたら何故か投稿してなかった記事があったので投稿します。

いつ書いたんだろ、

去年かな?

(投稿してみて思い出したんだけど一度公開して下書きに移したんだった。

2022年の年末みたいですね。今、2023年の9月です)

 

 

母は鬱病になってからテレビを見る時間が増えた。

料理の時も床にまな板を敷いて、テレビを見ながら野菜や肉を切っている。

深夜アニメ、ドラマ、バラエティ。

ニュースと映画とスポーツとドキュメンタリー以外を好む。

あの局のあの時間帯のドラマはずっと似たような展開だねと言う。

ならネットフリックスで好きなものを見ればいいと私は言った。

よく考えたら母が契約することは難しい。カードが作れないから。

でも、きっとお金があっても母はテレビを録画するのをやめないんじゃないかと思う。

無数の作品の中から好みのものを探すのは存外に疲れることを私は知っている。

勝手に流れてくる、ある程度固定化された番組表の中から取捨選択する方がまだ楽である。もしくは、気に入ったものを何回も再生するか。

 

何時間もぼんやりとテレビを眺める母の死体のような後ろ姿を見る度、無力感に苛まれる。

もう小説や映画の話をすることはないだろう。

映画はまだしも、小説を一冊読破することが難しくなったのは私も同じだった。

人間の文化的な部分が漂白されていくのは、たぶん病人に限った話ではない。

老いは必ず訪れる。

それに拮抗する人、しない人の違いは、持っている資本の数だ。

金銭的、文化的、教育的資本。そして、健康な心身。

私にはどれも備わってない。

私は漂白によって生かされる無味乾燥とした生を求めない。

確かな色彩に包まれて、造花のように死にたい。

墓石に刻まれるために書いてるんじゃない

クリアしたノベルゲームの感想をツイートしたら、製作者(すでに亡くなっている)の母親を名乗る鍵垢にフォローされた。bioには製作者氏が自殺で亡くなったことがほのめかされていて、ゲームの題材がメンタルとカウンセリングだったので酷く動揺した私は、しばらく悩んでからその鍵垢をブロックした。

生前の氏のツイートは結構病んでいたので、自殺かもしれないことは想像していたのだが、母親が何年も前に亡くなった息子の遺作をエゴサするというのは……この鍵垢がなりすましなのか本物なのかはわからないが、どちらにせよタチが悪い。ともすればゲーム本編よりも強烈にえぐられた。

 

多分、何かしらの創作をしていて、それを誇りとする人にとって、自殺はその尊厳を喪う死に方なんだろう。

自殺によって、彼らのものだった作品はその手からこぼれ落ちて、その死を悼む親類縁者たちにとって墓標になってしまうんだと思う。

勿論、作者と深い縁のない大多数の私たちには、それを作品として享受することができる。

でも、ふとしたきっかけで墓標を掲げた誰かを目の当たりにしてしまうと、こんな結果は死んでしまった彼らにとって不本意極まりないんじゃないかと、身勝手にも思う。

 

体育の先生に肩の力を抜けって言われても抜き方なんかわかんなかったよ。

床屋の待ち時間で久しぶりに本を読んだ。思ったよりスラスラ読める。

ここの床屋は多少客が待っていても絶対にスタッフの休憩を時間通りに取らせる。

日本のサービス業では珍しい(珍しくてはいけないのだが)余裕と緩さが気に入っている。

順番が来て理容師に散髪されるがままにしていると、自然に全身の力が抜けているのに気付いた。以前なら床屋で眠りそうになることなんか一度も無かったのに。生まれてからの二十数年、力の抜き方を知らずに生きていたのか。一年無職をやって初めて、肩の力を抜いて生きることを覚えたのかもしれない。

床屋から帰る道すがら、いつもより肌着が乾いてることに驚く。この時期でもすぐ肌着がビチャビチャになる多汗症なのだが。

世界はこんなにも楽に過ごせるものだったのか。

久しぶりに通る高校時代の通学路に郷愁を覚えながら、自身の思いがけない変化を歓迎した。

 

その後三連続で他人とバッドコミュニケーションをやらかした。

長期無職の悪影響もしっかり受けている。

どっちでも

鬱病が完全に寛解してきて、就労に関する意欲がなく一般的な労働者の倍は睡眠しないといけないこと以外は完全に全盛期のメンタルと語彙を取り戻した気がする。

多動衝動さえ先に開放してしまえば本も読めると思うし(エロゲしかやってないのでまだ試してない)、これ本当に自殺するモチベでいられるか?と自分で思う。

まあその気になれば死を回避する方法なんかいくらでもあるけど、それを選択した時点で今こうして思考する主体である自分はある意味で死ぬ、というか、死ぬのと同レベルの自己改革を強いられると思うので、それはそれでいいんじゃない?

後になってやっぱり死にますってならない限りは、自分がその時何を選ぶかを尊重しようと思う。